一(いっ)滴(てき)の水(みず)

文(ぶん):野呂(のろ) 昶(さかん)
制作(せいさく):立命館(りつめいかん)大学(だいがく)DAISY研究(けんきゅう)会(かい)



林(はやし)を ぬけると、急(きゅう)に ガンジス川(がわ)の、
ゆったり とした 水(みず)の 流(なが)れが、見(み)えて きました。
お釈迦(しゃか)さまは、弟子(でし)の アーナンダと ともに、
道(みち)ばたに 腰(こし)を 下(お)ろされました。
夏(なつ)の さかりの 山道(さんどう)を、半日(はんにち)ばかりも 歩(ある)きつづけ、
やっと ここまで、たどりついた のでした。
のどは、もう からからに かわいていました。



アーナンダは、さっそく 水(みず)をくみに、川岸(かわぎし)に 下(くだ)っていきました。
その時(とき)、一人(ひとり)の男(おとこ)が にやにやしながら、近(ちか)づいて きました。
見(み)るからに 意地悪(いじわる)な 顔(かお)つきを していました。
「あんたは お釈迦(しゃか)さまですね。」
「はい、そうです。」
「あんたが、ここを 通(とお)ると 聞(き)いたので、待(ま)っていたのです。」
「何(なに)か わたしに ご用(よう)ですか。」
お釈迦(しゃか)さまは、にこやかに たずねられました。
「いや、わたしは 水(みず)を 一(いっ)滴(てき)、あんたに 差(さ)しあげようと 思(おも)ってね。」
男(おとこ)は、頭(あたま)の毛(け)を 一(いっ)本(ぽん)引(ひ)きぬくと、
それを 持(も)っていた コップの 水(みず)に つけました。

そして、それを 引(ひ)き上(あ)げると、
「ところで わたしは 約束(やくそく)して ほしいのです。
この 水(みず)を 少(すこ)しも ふやさず、へらさず、
風(かぜ)にもさらわれず、いつまでも 持(も)っていると。
それに、鳥(とり)やけものがきて、飲(の)んでしまわないよう、
なにかの器(うつわ)に入(い)れて、地面(じめん)の上(うえ)においたりしないようにしてください。」
と 言(い)いました。
それは たいへんな 難題(なんだい)でした。

男(おとこ)は、お釈迦(しゃか)さまを こまらせてやろう、としているのでした。
お釈迦(しゃか)さまは、やさしい ほほえみを 浮(う)かべ、
「はい、わかりました。 そのように いたします。」
と、男(おとこ)に 手(て)を 合(あ)わせ、お礼(れい)を 言(い)うと、それを 受(う)けとりました。

そして、アーナンダが 下(くだ)っていった 川岸(かわぎし)に 向(む)け、
ゆっくりと 下(お)りていきました。
男(おとこ)は、いったい どうするのだろうと、
そのあとを、ついていきました。
お釈迦(しゃか)さまは、川岸(かわぎし)に 着(つ)くと、それを ガンジス川(がわ)の 流(なが)れに 入(い)れました。

そして、不審(ふしん)そうに 見(み)ている 男(おとこ)に 言(い)いました。
「あなたが くださった 髪(かみ)の 毛(け)一(いっ)本(ぽん)の 水滴(すいてき)は、
あなたの おっしゃるとおり、川(かわ)の 中(なか)で ふえもせず、
へりもせず、 また 鳥(とり)やけものに 飲(の)まれることもなく、
風(かぜ)や 日(ひ)の光(ひかり)に うばわれることもなく、
広(ひろ)い 大海(たいかい)へ むけて 流(なが)れていきます。
ありがとう。」

男(おとこ)は、お釈迦(しゃか)さまを、笑(わら)いものに しようと 思(おも)っていましたので、
これを 見(み)て、がっかりしました。
それでも、なお 思(おも)い直(なお)して、言(い)いました。
「では、あの 一(いっ)滴(てき)の 水(みず)を 返(かえ)してください。」
「いいですとも。」
お釈迦(しゃか)さまは、男(おとこ)から 髪(かみ)の 毛(け)を 一(いっ)本(ぽん) もらうと、
それを ガンジス川(がわ)の 流(なが)れに ひたし、男(おとこ)に 手(て)わたしました。

男(おとこ)は、言葉(ことば)もなく、背中(せなか)を かがめる ようにして、
そこを 立(た)ち去(さ)って いきました。
おわんに 水(みず)を くんだ アーナンダが、急(いそ)いで お釈迦(しゃか)さまの ところへ やってきて、
「何(なに)か ありましたか。」
と 聞(き)きました。
「いや、何(なに)も。」
お釈迦(しゃか)さまは、アーナンダが 差(さ)し出(だ)した おわんの 水(みず)を、
おいしそうに ゴクゴク 飲(の)まれました。






出典(しゅってん) 旧雑譬喩経(きゅう ぞうひゆきょう)