文:野呂 昶
制作:立命館大学DAISY研究会
「ウオーン!」
おそろしく 息の 長い 象の 鳴き声が、朝の空気を やぶって、聞こえて きました。
王さまの 宮殿の 象の 家の 方から でした。
その声を 聞くと、人びとは ふるえあがって、家の中へ かけこみました。
まもなく 王さまが、象にのって、散歩に 出かけられる からです。
なにせ、その象の 体は、ふつうの象の 二倍ほども あり、
その 力と いったら、人が 百人 かかっても、持ち上げられない 大木を、
ひょいと、鼻先で まき上げる ほどでした。
それに おそろしく らんぼうで、人を 見ると、鼻先で 投げとばしました。
王さまは、この象が なによりの じまんでした。

戦争では、弓矢など 少しも おそれず、突進していって、
何千という 敵を 追い ちらしました。
象は、王さまを 背中に 乗せて、道の まん中を、どしどしと、地ひびきを たてて 歩きました。
人びとは、家の中に 引きこもり、象の 通りすぎるのを、ひたすら 待ちました。
さて、この象の もう 一つの 役目は、罪人を その足で ふみつぶす ことでした。
象の家に 入れられて、生きて 帰ったものは、今まで 一人も いませんでした。
象の 家からは、毎日と いうほど、罪人たちの 悲鳴が、聞こえて きました。
その 悲しい 声は、どれほど、人びとを おそれさせたか しれません。
ところが、ある 時の こと、この 象の 家に、かみなりが 落ち、火が あがりました。
火は つんであった ワラに 燃えうつり、ほのおを あげました。
燃えさかる 火の いきおいに、役人たちは、どうすることも できず、
ただ ながめている ばかりでした。
さすがの 象も 死んだに ちがいない。人びとは 思いました。
その 時です。

ほのおと 煙の 中から、象は あわてる ようすもなく、ぬっと すがたを あらわしました。
王さまや 役人たちの、よろこびようと いったら ありませんでした。
新しい 象の 家は、とりあえず、お寺の 近くの 空地に 建てられました。
象は、朝に 晩に お経や 鐘の 音を 聞いて、くらすことに なりました。
ときたま、お坊さんの 説教の 声も 聞こえて きました。
そんな ある日の こと、たくさんの 罪人が、象の 家に 引きたてられて きました。
役人は、いつもの ように、罪人を 家の 中に ほうりこみました。
そして、急いで 扉を しめました。
まもなく、罪人たちの 悲鳴が 聞こえてくる はずでした。
ところが、いつまで たっても、なんの 物音も 聞こえて きません。

不思議に 思って、中を のぞいて みると、
象は、罪人たちには 目も くれず、しずかに 座って、お経の 声を 聞いているのです。
いくら 大声で けしかけても、見向きも しません。
こまりはてた 役人は、王さまに このことを 知らせに 走りました。
「象が 罪人を、殺さなくなって しまいました。
お寺の 近くに 家を 建てたのが、まちがいでした。べつの ところへ 建てかえましょうか。」

王さまは、だまって 聞いていましたが、やがて、深く うなずいて 言いました。
「そうか。それは 毎日、お寺から 聞こえてくる お経を 聞いて、
人を 思いやる、やさしい 心が 生まれてきたからだろう。
そのままに しておこう。建てかえることは ない」
出典 付法蔵因縁伝