すがすがしい顔(かお)

文(ぶん):野呂(のろ) 昶(さかん) 
制作(せいさく):立命館(りつめいかん)大学(だいがく)DAISY研究(けんきゅう)会(かい)






泉(いずみ)の むこうには、雪(ゆき)を かぶった ヒマラヤの 山々(やまやま)が、そびえて いました。

狩人(かりゅうど)は、さっきから、泉(いずみ)の 近(ちか)くの 雑木林(ぞうきばやし)に あみを はって、えものが かかるのを 待(ま)っていました。
昨日(きのう)も、鹿(しか)が この あたりを 通(とお)って、水(みず)を 飲(の)みに 来(く)るのを、見(み)とどけて おいたのです。

しばらく すると、めす鹿(じか)が 草原(そうげん)の 中(なか)から、すがたを あらわしました。
そして、軽(かる)く はねる ようにして、泉(いずみ)に 近(ちか)づいてきました。
その時(とき)、あみが くるむ ように、鹿(しか)に からみつきました。

「しめた。かかったぞ。」
狩人(かりゅうど)は、よろこんで 鹿(しか)の もとへ かけ出(だ)しました。
鹿(しか)は、悲(かな)しい なき声(ごえ)を あげ、逃(に)げようと もがいていました。
「もう、あきらめるんだな。その あみからは けっして 逃(に)げられは しない。」
狩人(かりゅうど)が 言(い)いました。

すると、鹿(しか)は、急(きゅう)に もがくのを やめ、頭(あたま)を 下(さ)げるようにして、言(い)いました。
「わたしは、もう どうなっても かまいません。
ただ、わたしには、生(う)んだばかりの 二(に)匹(ひき)の 子(こ)どもが います。
まだ よく 目(め)も 見(み)えません。
えさも、さがせません。
わたしが いなくなれば 死(し)んで しまいます。
どうか、あと 七(なの)日(か)間(かん)、わたしを 帰(かえ)してください。
その あいだに、自分(じぶん)で 生(い)きて いけるように 教(おし)えて、かならず、ここに もどってきます。」

狩人(かりゅうど)は、けさ 家(いえ)を 出(で)る 時(とき)、お嫁(よめ)さんが 言(い)った 言葉(ことば)を、思(おも)い出(だ)しました。
「明日(あす)か、あさってには、赤(あか)ちゃんが 生(う)まれます。
せめて、この二(にさ)、三日(にち)の間(あいだ)だけでも 生(い)きものの 命(いのち)を とるのは、やめて くださいな。」

狩人(かりゅうど)は、しばらく だまって いましたが、
「よし、おまえの その 言葉(ことば)を 信(しん)じよう。
逃(の)がして やるから、子(こ)鹿(じか)の もとへ 帰(かえ)るが よい。」
と あみを ほどいて やりました。

狩人(かりゅうど)は、生(う)まれてくる、自分(じぶん)の 子(こ)どもの ことを 思(おも)い、この 鹿(しか)に だまされて やっても いいと 思(おも)ったのです。

鹿(しか)は、よろこんで、雑木林(ぞうきばやし)の 奥(おく)に 走(はし)って 行(い)きました。
それから、七(なの)日(か)たった 昼(ひる)すぎ、狩人(かりゅうど)は、やくそくした 泉(いずみ)の ほとりに やってきました。
顔(かお)は 嬉(うれ)しそうに、ほころんでいました。
昨日(きのう)、玉(たま)の ような 男(おとこ)の 赤(あか)ちゃんが、生(う)まれて いたのです。

「やくそくなど、守(まも)らなくて いいぞ。来(こ)なくても いいぞ。」
狩人(かりゅうど)は、口(くち)の 中(なか)で 言(い)いました。ほんとうに そう 思(おも)って いたのです。

ところが、やがて 草(くさ)を ふむ 音(おと)が して、鹿(しか)が すがたを あらわしました。


うしろから、かわいい 二(に)匹(ひき)の 子(こ)鹿(じか)も、出(で)てきました。
「ついて きては ダメ。帰(かえ)りなさい。」
母(はは)鹿(じか)が、きびしい 声(こえ)で 言(い)いました。
でも 子(こ)鹿(じか)は、母(はは)鹿(じか)に まとわりついて、はなれません。

それを 見(み)ると、狩人(かりゅうど)は、急(きゅう)に こわい顔(かお)を して、どなりました。
「おまえとの やくそくなど、もう 忘(わす)れた。さっさと、わしの 目(め)の 前(まえ)から 消(き)えうせろ。」
「早(はや)く、逃(に)げろと いったら、逃(に)げろ。」

鹿(しか)の 親子(おやこ)は、なにが なんだか、わからない ままに、雑木林(ぞうきばやし)の 中(なか)に 逃(に)げていきました。

狩人(かりゅうど)は、ヒマラヤの 峰々(みねみね)に むかって、大(おお)きく のびを しました。
それから、すがすがしい 顔(かお)を して、家(いえ)に 帰(かえ)って いきました。