たった一人(ひとり)のぎせい

文(ぶん):野呂(のろ)昶(さかん)
制作(せいさく):立命館(りつめいかん)大学(だいがく)DAISY研究(けんきゅう)会(かい)





山(やま)を 下(お)りると、そこは 一(いち)面(めん)の 草原(そうげん)でした。


背(せ)たけほども ある 草原(そうげん)の 中(なか)に、何(なん)本(ぼん)もの 道(みち)が 分(わ)かれて つづいて いました。
五(ご)百(ひゃく)人(にん)の 隊(たい)商(しょう)たちは、そこまで くると、立(た)ち 止(ど)まり、そうだんしました。
「いったい どの 道(みち)を 行(い)けば 町(まち)へ 出(で)られるのか。」
「できれば、一番(いちばん)近道(ちかみち)がいいが。」
でも、だれも その 道(みち)を 知(し)っている 者(もの)は いませんでした。

「道(みち)に まよって、底(そこ)なし沼(ぬま)にでも 落(お)ちこんだら 大変(たいへん)だ。
この あたりの 道(みち)に くわしい 人(ひと)を さがして、案内(あんない)して もらおう。」
商人(しょうにん)たちは、人家(じんか)を さがしに 出(で)かけました。

幸(さいわ)い、山(やま)すそに 十(じゅっ)軒(けん)ばかりの 村(むら)が ありました。
一(いっ)軒(けん)一(いっ)軒(けん) たずねては、案内(あんない)してくれる 人(ひと)を、たのんで 歩(ある)きました。
お金(かね)も たくさん 用意(ようい)しました。
でも、村人(むらびと)たちは、だれ 一人(ひとり) 引(ひ)き受(う)けては くれません。

なにしろ、この 草原(そうげん)には、おそろしい 鬼(おに)が いて、人(ひと)を 見(み)つけると、取(と)って 食(く)って しまうと いうのです。
それでも、だれか ひとりを ぎせいにして 出(だ)せば、あとは 食(た)べないとの ことでした。
「でも、ぎせいになる 人(ひと)が いるかどうか、 そんな 人(ひと)がいる はずがない。」
村人(むらびと)たちは 言(い)うのでした。

「いや、たった 一人(ひとり)なら、ぎせいを 出(だ)しても かまいません。
みんなの ために なるのですから・・・。どうか おねがいします。」
商人(しょうにん)たちは、顔(かお)を 見合(みあわ)せて 言(い)いました。

「本当(ほんとう)に できますか?」
「できますとも、わたしたちは 五(ご)百(ひゃく)人(にん)も いるのです。その うちの たった 一人(ひとり)ぐらいなら。」
みんなは、口(くち)を そろえて 言(い)いました。

「それなら、わたしが 案内(あんない)しよう。」
若(わか)い 男(おとこ)が、名(な)のり 出(で)ました。

道(みち)案内(あんない)の 村人(むらびと)を 先頭(せんとう)に、五(ご)百(ひゃく)人(にん)の 隊(たい)商(しょう)たちは、草原(そうげん)の 中(なか)へ 入(はい)って いきました。

夕(ゆう)ぐれ 近(ちか)くに なったころ、草原(そうげん)の 向(む)こうに、大(おお)きな 黒(くろ)いかげの ようなものが、
ぬっと 立(た)ち上(あ)がるのが 見(み)えました。



金色(きんいろ)の 目(め)が 光(ひか)っています。
「鬼(おに)です。鬼(おに)が 出(で)ました。」
案内(あんない)の 男(おとこ)が、ふるえながら 言(い)いました。
「早(はや)く、ぎせいの 一人(ひとり)を 出(だ)してください。」

商人(しょうにん)たちは、あわてて、
「だれか ぎせいになる 者(もの)は いないか?早(はや)く 名(な)のり 出(で)てくれ。だれか、早(はや)く!」
と、言(い)いました。

ところが、いくら 待(ま)っても、名(な)のり 出(で)る 者(もの)は いません。
「早(はや)く 出(だ)さんか、でないと、みな殺(ごろ)しに してしまうぞ。」
おそろしい 鬼(おに)の 声(こえ)が、せまって きました。

「早(はや)く 出(だ)してください。」
案内(あんない)の 男(おとこ)が おがむように 言(い)いました。

商人(しょうにん)たちは、おろおろして いましたが、急(きゅう)に 案内(あんない)の 男(おとこ)のうでを 取(と)ると、
鬼(おに)の 方(ほう)へ つきとばして、言(い)いました。

「こいつを 食(た)べてくれ。」
「な、なんと、やくそくが ちがうじゃないか。」
男(おとこ)は、もどろうと しました。

それを 今度(こんど)は、みんなで力(ちから)まかせに つきとばしました。
鬼(おに)は 案内(あんない)の 男(おとこ)を、わしづかみに すると、どこともなく 消(き)えていきました。

五(ご)百(ひゃく)人(にん)の 隊(たい)商(しょう)たちは、ほっとして、みんなの 無事(ぶじ)を 喜(よろこ)び合(あ)いました。
ところが、案内(あんない)人(にん)の いなくなった 草原(そうげん)の 道(みち)は、行(い)っても 行(い)っても、はてが ありません。
そのうち、二(ふた)人(り)たおれ、三(さん)人(にん)たおれ、やがて 五(ご)百(ひゃく)人(にん)の 隊(たい)商(しょう)たちは、
一人(ひとり) のこらず たおれて、亡(な)くなって しまいました。





出典(しゅってん) 百(ひゃく)喩(ゆ)経(きょう)